2018年10月17日水曜日
「弱者として生きる権利」の暴力性
「弱者として生きる権利(個人の尊厳・権利を放棄する権利)」などというものはあろうか?
身分社会ではない平等原則に立つのであれば、強者ー弱者の関係は解消するべきだ。解消するための支援は必須。
弱者でありたいということがあるとすれば、それは強者に強者であることを強いる逆のパワハラでもある。
己がマゾだからと言って、暴力を受ける姿をさらすことは、他人にとっては暴力となる。
ここで言っていることは、全て、プライベイトな領域であるのならば問題はない。
しかし、公共空間のプライベイトな利用の仕方を許せば、やったもの勝ち、弱肉強食の無法地帯と化す。
パブリックな空間においては、強者としての振る舞いも、弱者としての振る舞いも、他人を傷つける行為であり、公共の福祉に反するのである。
公共空間においては、権利は絶えず衝突する。どちらかだけの権利が優先されるというのもおかしく、譲りあわなければならない。そして、それは、個人対個人ではなく、あくまで個人対公共なのであって、多数の個人が権利を主張しても共存できるようにしなくてはならない。
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