2019年7月29日月曜日

ポピュリズム(大衆迎合)
刹那主義・快楽主義・利己主義・思考停止・偽善・退廃・暴力

には抗わなくてはならない

2019年7月26日金曜日

手段を誤れば民主主義下でもファシズムに突き進みかねない

山本太郎氏は繰り上げ当選狙い?特定枠と個人票集めの謎 | なるほどブログ。
 https://naruhodo.repop.jp/yamamoto-tarou-tokuteiwaku/
私と同様の疑問をまとめてくれている方がいました。↑
参考にされてください。

悪法も法なり(憲法違反であれば無効)、ではありますが、悪法を悪用して良い訳はありません。
信念やスタンスが問われます。
結果オーライではなく、その過程に問題があればその過程自体は問題化しなければなりません。
どうみても、悪法を悪用して、有権者を愚弄、民主主義を退廃させているように思えてなりません。

2019年7月24日水曜日

町山智浩 加藤浩次の吉本興業告発と韓国映画『共犯者たち』を語る

会社(権力)は公器であり、私物化は許されない
傍観者は共犯者に等しい

悪法の悪用

れいわ新選組の比例候補得票結果(NHK)
https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/sangiin/2019/00/hmb12_212.html?fbclid=IwAR2XGjPvqWuOPR5eqGNvZoTSa2KM2ZxdY2-bIZ_YrAhB6UjNOfZiG5OsLW4

既存政党への不信から「れいわ新選組」に投票した人も多いに違いない。
その際、この特定枠の使い方も含めて賛同した人はどのくらいいるのだろうか?
選挙間際の急場繕いであったろうから致し方ないのかもしれないが、少なくとも候補者の間で話し合いはあったのだろうか?
他の候補者より、特定枠の2人が特別に議員にふさわしい、ということもないように思われる。
特定枠など使わず、「れいわ」候補者の中で得票1位と2位が当選したのであれば何の異論を挟む余地もないが、どうも有権者を惑わしているように思えてならない。
それが戦略であるにしても、民主主義に適っていると言えるだろうか?

2019年7月23日火曜日

代議制民主主義の危機

一石を投じたことに意味はある
しかし、本当に、本人が国会議員になりたくてなったのだろうか?
選挙で選ばれるということと、議員としての責任を果たすこととは、また次元が違う
議員としての職責を果たしているとは言い難い議員はいくらもいる
病気を理由に欠席する議員や、職責を全うできなくなったことを理由に辞する議員もいる
各議員の抱えている個別な事情に対し、議会側はどこまで特別扱いをするべきなのだろうか(合理的配慮が必要なのは自明)
そもそも舩後氏は、本心から病気を押してまで議員を務めたいのだろうか
個人ホームページすらなく、国政の個別課題に対する考えの発信はほぼ皆無
本人の議員としての資質が問われることなく、奇想天外な党の顔として利用されている印象が拭えない
党の政策委員だとか、顧問になってもらい、支障なく議員活動できる者がそれを活かす、というのが健全なあり方ではないのか
はたして、山本氏はこれまでも、様々な困難を抱えた当事者を政策顧問のようにして議員活動してきたのだろうか?
障害者・病者を虐待、利用しているように感じるのは私だけだろうか?
議員は得意なことにだけ関わるわけにはいかず、すべての議案に向き合わなくてはならない
そうした国民の代表としての気概が求めらる
様々な当事者の意見を吸い上げる手立ては公聴会や審議会などもある
適性にあった役割分担があって然るべきだ
病をおしてまで当事者が出てこなければならないような政治というのが情けない

2019年7月22日月曜日

ポピュリズム選挙

シングルイシューには訴求力がある
しかし、あくまで選挙は議員を選ぶ仕組み
議員はすべての議案に議決権がある
理解せずに権限を行使してもらっては困る
棄権するなどというのはもってのほか
全てを理解し、意志を持って議決に臨んでいただかなくてはならない
どのように議案に向き合い、どのような意志を持って議決に臨んだのか、有権者に説明する責任がある
そうした能力のない者を議員に選んではならない
いや、選ぶのは自由だ
責任を果たしきれない場合があることを認めた上で選ぶのであればいい
政党はある程度所属議員に対する信用保証の役割がある
しかし、政党に従うか従わないかは議員の自由
最終的な議決権は議員がすべての責任を負っている

2019年7月17日水曜日

反緊縮は堕落の肯定

日本の国家財政は借金で維持されている。
借金で借金を返す悪循環で、借金総額は増え続け、完済する目途はない。計画もない。
いずれ踏み倒すつもりで、完済する気はないのかもしれない。
踏み倒す積りであることがバレれば信用がなくなり、それ以上借りられなくなる。
信用があるから借金ができるわけだが、その信用の根拠はないに等しい。
資源には限りがあるが、ある限りは使うことで経済は回る。
消費すればするだけ儲かる。
消費すればするだけ経済は膨らむ。
しかし、使うばかりで生産しなければいつかは底をつく。
儲けられるうちに儲け、奪えるうちに奪う。
誰かの不幸に乗じる利己的で刹那的な投資は、いずれ破綻する。
財政健全化の必要はない、などというのはあまりに無責任。
大衆迎合にもほどがある。

MMT理論の矛盾

日本の巨額債務「問題なし」=消費増税を批判-MMT提唱者
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019071601094&g=eco&fbclid=IwAR2mI03xBVaRgo0WyQfxuq9GD3QpLCeDn7MJWQ9hXqkRQSG-0rNiSfnSa6E

昨日の報道ステーションでMMT理論なるものの解説をしていました。
国債を銀行に売り、その資金で公共事業を行い、市場に出回った金は貯蓄となって銀行に戻ってくる、と。
「自国通貨を発行できる国は、低インフレ下ならいくら借金をしても問題ない」と言うわけですが、「低インフレ下」というのは、市中に出回っている貨幣が一定であるということで、利益は貯蓄に回され、貯蓄が増え続ける、ことが前提となっています。すなわち、経済成長が前提となっているわけですが、少子高齢化かつ人口減少社会となって、生産人口が減少すれば、貯蓄より消費する方が多い人口が増えていくわけで、社会全体として貯蓄が増え続ける、なんてことはあり得ないのではないでしょうか?
太陽エネルギーなど、使えるエネルギーは無限かもしれませんが、地球の環境容量は有限なのですから、無限に人口が増え続けるわけはありません。いずれは循環型の安定社会となるのでなければ文明は破綻するでしょう。
MMT理論の前提である経済成長が永続する保証がどこにあるのでしょうか?

2019年7月14日日曜日

宣伝合戦に使われる政党助成金の浪費

政党助成金 8党で総額317億円余 | NHK政治マガジン
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/lastweek/13136.html

政党のCMには政党助成金が使われている
政党助成金には使徒の制限がない
有権者の六割が支持政党なしで、政党は期待される仕事もしていないし、そもそも期待されてもいないのに、よく平気な顔して助成金を受け取り、ポピュリスティックな選挙対策にばかり浪費できるものだ

2019年7月12日金曜日

議会を巻き込む続柄廃止運動

続柄廃止論!?
 続柄廃止運動というのをご存知でしょうか?
 戸籍の続柄記載が婚外子差別に繋がるから廃止しろ、という運動です。
 藤沢市議会にも2016年12月定例会に『婚外子差別撤廃についての請願』があり、反対したのは私一人だけでした。そのため請願は藤沢市議会の意見書として国へ提出されました。
 この時の議事録を読み返すと、明らかに議論が噛み合っていません。私が言わんとすることが全く理解されていませんが、果たして皆様はいかがお考えでしょうか?

(議事録抜粋)https://drive.google.com/open?id=1orZILtu7jFv_p8ocz9exDQF7xp-oN7c8

 この請願には2点の主張があります。出生届にある「嫡出子・嫡出ではない子」の欄を廃止することと、戸籍謄本における続柄の記載を廃止すること。いずれも婚外子差別に繋がるというのが理由ですが、私が反対したのは、続柄記載廃止の部分です。出生届の欄については、なくなっても行政手続き上何ら問題がないとの答弁でしたので、必要ないと私も思います。
 婚外子差別というのは、嫡出子と非嫡出子とでは、法定相続に差があり、非嫡出子は嫡出子の2分の1となっていたのですが、2013年に違憲判決が出て、改正されました。このことで法的な不利益は解消されたわけですが、巷には、就職時や結婚時の婚外子差別が依然として残っているそうです。
 また、2004年までは戸籍の続柄欄に、嫡出子の場合は「長男、長女、二男、二女」などと書くのに対し、非嫡出子の場合は「男、女」とのみ書かれていました。2004年11月の戸籍法の改正でこの差別的な区別はなくなり、「長男、長女」の書き方に統一されました。それ以前の出生で、「男、女」と書かれている場合は、更正の申し出で書き換えることができます。さらに更正の跡が残らないように戸籍を再製することもできます。
 これによって続柄の表記の仕方による嫡出子・非嫡出子の区別(差別)はなくなりました。しかし、実際には、更正の申し出がなされず、そのままになっている人が多いため、いっそのこと不必要な続柄記載は廃止すればいい、というのが二つ目の請願項目です。
 現行制度では再婚した際などに、「最初の婚姻で長男、二男が生まれ、再婚後にさらに長男が生まれ、同一の戸籍にいるというケース」があり、混乱を生じる。もともとは家督相続の順位を明確にするためのものであり、家督相続の制度がなくなったのであるから、実父母や養父母の記載だけで十分である、というのが請願者の主張です。

<私の意見>
差別と差別語の禁止 差別被害をなくすことと、差別に繋がる区別自体をなくしてしまうこととは次元が違います。
 例えば、男女差別をなくすために、性別という概念自体をなくしてしまう、というのはあまりに乱暴です。性概念をなくしたところで、性という実態を伴う事象が存在するのですから。差別語はそれ自体が暴力性を持っているのであれば使用を規制するべきでしょうが、言葉・概念自体に悪意がないのであれば、悪意を持った使用を規制するべきなのではないでしょうか。


差別語である『嫡出』
「嫡出」という言葉には正統という意味があり、私生子(婚姻外で生まれ父の認知を受けない子)より庶子(婚姻外で生まれ父が認知した子)、庶子より嫡出子といった順で優遇されていた歴史があります。「嫡出」という言葉自体が差別語であるから、行政から排除する(出生届から欄を除く)、というのは良いかと思います。単に婚内子、婚外子とすれば事足ります。
 そして、世間においても、婚外子であることで不利益を被るような差別は撲滅するべきです。
 一方、続柄については、記載の仕方は是正され、過渡的に古いままの表記が残っているものの、それは過渡的な問題なのであって、続柄自体の是非とは直接には関係ありません。

続柄記載の価値
 請願者は「もともとは家督相続の順位を明確にするためのものであり、家督相続の制度がなくなったのであるから、実父母や養父母の記載だけで十分だ」と言いますが、それだけではわからない情報が続柄には含まれています。読み取れる情報は限られてはいますが、リンク先の例などの場合、二女とあれば、兄や弟、妹の存在はわかりませんが、少なくとも戸籍外に姉がいることは分かります。また、長女とあれば姉はいないことが分かります。
https://makino-law.com/wp-content/uploads/2018/11/%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%96%E5%B9%B4%E5%BC%8F%E6%88%B8%E7%B1%8D%EF%BC%88%EF%BC%91%E6%9E%9A%E7%9B%AE%EF%BC%89.jpg
 いろいろな経緯がありうるので、続柄から読み取れる情報が正しいのかどうかは、改製原戸籍や親の親の戸籍謄本などを調べる必要がありますが、そうした経緯を含め、続柄はいろいろな情報を与えてくれます。
 すなわち、現行の続柄表示には、実父母や養父母の記載があるだけではわからない情報が含まれており、続柄は無意味、不必要、とまでは言えない、というのが私の主張です。特に本人にとっては兄弟姉妹の情報を知る機会ともなります。
 続柄に対する価値観には、各人の家族観が影響しているように思われます。兄弟は他人の始まり、とも言いますから、大事なのは親子関係だけだと言う人にとっては兄弟の存在など関係ないでしょう。

日本独特な戸籍制度
 家族間にどのような相続などの既得権を与え、養育義務や扶養義務を課すか、といったことは社会制度の在り方の問題です。戸籍制度は家族の範囲を明確にするための役割の他、個人の情報を社会が管理するという側面があります。この情報としての価値という意味で、続柄表記にも価値がある、と私は主張したわけですが、そもそも家族の繋がりを社会が管理することの必要性があるのか、どうか。
 日本独特の戸籍制度自体の是非こそ問題にするべきなのだと思います。この前提を踏まえずに各論を議論しているところに無理があります。
(参考)http://www.hirokom.org/minpo/siryo02.html
 戸籍制度の問題として、夫婦別姓が認められていないことや、対等ではない戸籍の順位(筆頭が夫婦のどちらなのか)、といった問題があるために事実婚を選択する夫婦は、社会制度上の不利益を様々被っています。

2019年7月10日水曜日

全会一致の幻想

 民主主義が機能していれば、全会一致などということはそうそう起こらない。36人いる藤沢市議会で、4年の任期中、私一人だけが異論を唱えているという案件が結構あった。
 『全会一致の幻想』という現象があるらしいのだが、藤沢市議会もこの傾向があった。結果として全会一致になるとしても、多様な意見を踏まえた上で議決しようという意識がないと、大事なことを失念しているということが起きてしまうのである。
 現に、藤沢市政において、長年、当たり前と思えることが抜け落ちていた事案が多々あったのも、議会が集合知としての機能を有していないことが一因に違いない。

『全会一致の幻想』
全会一致の幻想とは、集団思考(集団で意思決定を行おうとする際、集団の結束を乱したくないという心理作用を原因として、客観的で批判的な思考および判断が妨げられる現象)に陥る際の兆候の1つである。 自己検閲(集団の結束を乱したくないという心理作用から、疑問や反論を自ら控える心理的傾向)および「異論が無い事とは賛成を意味する」という間違った認識により、各個人としては異論や意見があるにも拘らず、全会一致の状況が作られていく兆候を指す。(
ウィキペディアより)

2019年7月9日火曜日

立憲・護憲政党の欺瞞

立憲主義・護憲

と言いながら

自衛隊・日米軍事同盟

を容認する

欺瞞

これが政党不信の元凶なのではないでしょうか?

政党政治の終焉

 議員が多いことは民意の反映に寄与するはずですが、政党政治によって議員の独立性が失われ、単なる数合わせのコマでしかなくなっているのが問題なのだと思います。情報化社会となり、情報収集にしても、発信にしても、個人でできる時代ですから、もう政党は必要ないのではないでしょうか?必要性より弊害ばかりであるように思えてなりません。
 支持政党なしが有権者の6割にも上るのに、政党には政党助成法によって多額の政党交付金が交付され、その他の政治団体と比して圧倒的に優遇されています。日本の政治制度はあえて政党政治を維持する形となっています。既得権が守られる、自由な形とはとても言い難い状況にあります。

2019年7月8日月曜日

欲に阿るリベラルは堕落でしかない

増税をしないならば、なおさら財政の健全化、構造改革が必要だ
人口減少社会において、さらなる経済の膨張を目指すことには無理がある
資源は有限なのに、自然循環から外れた消費(使い捨て)を煽れば、破綻は早まる
刹那主義ばかりで、持続可能な社会づくりを目指す、理性的な政党が少なすぎる(経済政策に関しては維新が唯一まとも。リベラルな政党で同様な経済政策を主張する政党がなぜないのか?)
無駄な消費を抑え、最少の消費で豊かな生活を目指すべき
物の値段を上げ、サービスの値段を下げ、物消費中心社会からサービス中心社会への転換をはかるべきだ

2019年7月5日金曜日

議会は茶番であってはならない

セレモニーの価値
 国会(議会)は言論の府、と言いますが、ガチンコの議論に何を期待しますか?
 ほとんどの議会では、委員会はガチンコであっても、本会議は準備した原稿を読んでいるだけ。これを目の当たりにしてガッカリした、との声をよく聞きます。
 実際、本会議はまさにセレモニー、儀式の意味合いが強く、文書のやり取りだけでもいいのかもしれませんが、実際に可視化することで正式なものとする、という民主主義を担保するための一手段となっています。
 とりわけ本会議での行政側の発言は、ここに行き着くまでの折衝が結実したものであるわけですが、その過程が分からないから、予定調和で、無意味なように思われるのだと思います。本来、公共を担う行政側は、なぜ最終的な答弁に行き着いたのか、その過程を記録し、公開する、といった説明責任があるはずです。しかし、藤沢市の場合、そうした議員との折衝の記録はほぼ出てこないことでしょう。記録しなければならないという意識がまるでありませんから。

国会と地方議会との明確な違い<責任の所在>

 ところで、勘違いが多いのですが、国会と地方議会には大きな違いがあります。国会は議会で選ばれた総理大臣が任命した大臣が省庁のトップを務める議院内閣制であり、地方議会は有権者に直接選ばれた首長が任命した職員が部局のトップを務め、それを議会がチェックする二元代表制。大臣が国会で行政の意思決定に反する発言をしたとしても、それは政治的裁量なのであって、その責任は内閣が負っており、行政はそれに従わなくてはならなくなります。地方議会の場合、部局のトップに個人的な裁量などはなく、行政組織の意思決定に忠実に従う立場であり、その意思決定の責任は首長が負っています。
 同じ本会議であっても、国会は基本的に議員が行政側のトップとして発言しているのに対し、地方議会では、首長の他は行政内部の公務員がトップとして発言しているのです。発言者の裁量、責任には大きな違いがあります。
 選挙で選ばれた議員や首長には独立した裁量がある分、責任を問われればその身分を追われることもありますし、選挙で落選すればそれまでです。
 議員や首長には裁量があるとは言っても、そうした権限があるからこそ、普通は公式な場で不用意な発言はしません。多くの人は用意周到、原稿を用意しています。


議会に茶番を求める衆愚政治
 本会議と委員会では、発言の重みに違いはないはずですが、委員会は本会議から付託された審議であり、本会議に審議結果が報告された後に最終的な議決がなされる、ということからして、本会議の場での発言が議決に一番近い影響を与えるという意味で重要度は増します。そのため、本会議での発言はより慎重になり、議員の多くも用意した原稿を読んでいるわけです。
 一方、委員会には、とりわけ嘘が罷り通るような不誠実な政治状況であれば、衆人環視の下で、本音に迫る、という取り調べのような機能もあります。失言や準備不足から本音が垣間見えるということもあるでしょう。そうした意味のある失態を追及するのは構いませんが、しばしば、威勢の張り合いや公開処刑を見るような、暴力的なエンターテイメント性をそこに求めていることがあるのではないでしょうか?
 通常、議論が白熱したからといって、その勢いで採決に雪崩れ込み、議論の攻勢が表決に反映される、などということはありません。議論で明らかになったことも踏まえ、冷静に判断して、採決に臨むものです。
 あくまで中身。議論の中身が大事なのであって、中身を吟味した上で、選挙などの機会を通じて有権者としての意志を反映させたいものです。


追記

 何を面白いと思うかではありますが、権威やセレモニー好きには本会議が向いていますし、アドリブ的なやり取りや議員や市役所の本音や態度、議員の資質を直視したいというのであれば委員会の方が断然いいです。

 藤沢市議会の場合、柳田議員のように委員会でしか発言しない議員(この4年間一般質問ゼロ)というのもいて、安直な暴論にはうんざりしたものですが、なぜだかこれに異を唱える議員が少なく、暗躍しているような印象がありました。たいていの市の提出議案は委員会に何回か報告された後に議案化されるので、委員会の方が意思決定過程に近い機能を持っています。

議員の本音が見える議会運営委員会

 とにかく時間があるときは議会を傍聴する。というくらいの市民が増え、常に議会が市民の環視下に置かれているくらいの緊張感があれば、藤沢市政もよくなっていくかと思います。議会は市民の代議場ですから、もっと市民の出入りがあってしかるべきですし、勝手にやっている感があるのが現状です。

民主主義を危ぶむ刹那主義

浅い理解は行動に結びつかない
浅い理解しかできない人、浅い理解で分かった気になる人、浅い理解で満足する人、、も多い
浅い理解では本質を理解できない
本質を理解できなければ本質的な価値がわからない
しかし、そもそも、分ろうとしなければ理解は深まらない
本質には辿り着き難くとも、辿り着こうとすることで、理解は深まっていくものだが、安易な方に流れがちである
目先の安易さに溺れていたのでは本質には辿り着けない
精神力・胆力が必要
本質に辿り着きたいと欲する人と、本質などどうでもいい人とは、違う世界に生きているようなものである


目の前の生活に追われて社会の問題に目を向ける余裕もない、という人が多いのか、余裕があるけど見たくない、今楽しければそれでいい、という刹那主義者が多いのかもしれません。
これだけ混迷し先行きが危ぶまれる現代社会にあって、問題を直視せずにいられるのは恵まれている一部の人々だけかもしれませんが、日本国民全体がもう少し思慮深くならないと、世界から取り残され、気が付いた時には殺伐とした社会となっている、ということになりはしないかと危惧しています。

議員と同じレベルで有権者が議員を後押しするようでなければ本来の民主主義ではないのでしょうが、実際には議会でなされていることのほとんどは有権者に理解されていませんよね。有権者としては、自分たちの社会のことについて、よくわからないままに決められては困るはずですが、平気でいる人が多いのが現実ですし、政治に関与している人々にとってはそうして一部の人だけで決められる方が都合がいいために、敢えてそうしているということもありますね。誰しもが、有権者として、社会の在り様に対して責任があるという自覚を持つべきだと思います。文字が読めるかどうかは大した問題ではないと思います。文字が読めなければ聞けばいいですし。

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