幸福な環境にあっても幸福を実感できないことほど不幸なことはありません。 一方、ブータンはGDP(国内総生産)ではなくGNH(国民総幸福量)を重んじた国づくりを標榜していることで有名ですが、独裁体制に近く、民族差別や基本的人権の制約が多い国のようでもあります。
国連の2018年版World Happiness Reportでは、世界幸福度ランキングで97位(日本は54位)とそれほど高くもありません。この調査は「幸福な環境」を測っているのであって、心理的幸福は含まれていないようですから、GNHとイコールではないのでしょうが、ブータンの場合、幸福量の重視を標榜しているだけで、実質が伴っているのかは疑わしく、メディアのミスリードによって「ブータンは素晴らしい」とイメージ操作されているようにも思われます。
国家の管理主義によって自国文化を守れているという点で保守層からの支持が強いのだと思われますが、私は、国民より国家が優先される社会がいいとは思いません。
経済指標より幸福度に重きを置くことには賛成です。しかし、無理矢理意識させられた見せ掛けの幸福であれば無意味ですから、幸福の見える化には工夫がいります。
その他の国際指標
Democracy Index2016(イギリスのエコノミスト誌):ブータン99位、日本23位
Freedom in the World 2018(NGOのフリーダムハウス)自由度指数(max100):ブータン55、日本96
https://freedomhouse.org/report/freedom-world/2018/bhutan?fbclid=IwAR0D0ZKmNA1lZMBstqiHgnF1oBwFBoqINdXhypNAQTlFw-ktburfwdm3Qgg
2019年1月31日木曜日
2019年1月26日土曜日
ゴミ処理に年間総額約50億円!
現在、焼却灰は年間5億円以上かけて溶融化しリサイクルされているので、最終処分場への搬入はありません。わずかに市民が直接持ち込むレンガやブロック類、火災や台風等による罹災ゴミの受入れがあるのみであるため、女坂最終処分場の寿命は平成55年と推計されています。ほとんど受け入れがなくても最終処分場管理費は年間約1億2千万円も掛かっています。
ゴミ処理には総額で年間約50億円(リサイクル経費含む)が掛かっています!
ごみを出さない(=資源を浪費しない)に越したことありません。
2019年1月25日金曜日
燃やさないゴミではない「不燃ゴミ」
「不燃ゴミは、燃やすと有害だったり、燃えなかったりするから、埋め立てている。最終処分場を延命するためにも可燃物が混入しないようにしなければ。」と、神経質になっている人は多いかと思います。
ゴミの分別には、可燃物と不燃物がありますが、実は「不燃物は燃やせないゴミ」というわけではない、のです。
不燃物は字義的には「燃えない物」であり、燃やさないゴミだと思って分別している人が多いのではないかと思うのですが、藤沢市では、「不燃ゴミ」は破砕して、鉄とアルミを取り除いたのちに焼却しています。
「本市での可燃ごみと不燃ごみの分別基準ですが、基本的に、可燃ごみに該当しないものが不燃ごみや大型ごみとしております。 これは、焼却施設での処理に影響がないものである、生ごみや紙くずなどを可燃ごみとし、金属類が回収できるものや、焼却施設で処理するにあたり、長さ、大きさ及び材質により焼却施設へ影響を及ぼす可能性のあるものを不燃ごみとしたものです。現在、この不燃ごみを破砕して、小さくし、様々な材質でも焼却施設で処理可能な大きさにし、鉄・アルミを取り除いたものを焼却施設にて処理しています。」(12月定例会酒井信孝の一般質問への環境部長答弁)
処理に手間やコストのかかる不燃ゴミは減らすに越したことありませんが、不燃ゴミに可燃物が混入したとしても結局は焼却しているので、そこまで神経質になる必要はありません。
2019年1月22日火曜日
藤沢市内17児童クラブの面積は基準の3分の2!
平成26年に定められた厚生労働省令第63号『放課後児童健全育成事業の設備及び運営に関する基準』では、放課後児童クラブの専用区画(遊び・生活の場としての機能、静養するための機能を備えた部屋又はスペース)の面積は児童1人につきおおむね1.65㎡以上となっています。
しかし、藤沢市の放課後児童クラブは、平均1.37㎡。全62クラブ中、44クラブが基準以下。1.1㎡以下が17クラブもあります。この17クラブの児童1人当たりの面積は、基準の3分の2程度しかなく、基準よりひしめき合っているということです。
平成32年3月31日までは経過措置となってはいますが、元来、藤沢市の放課後児童クラブはきゅうきゅうとした環境であるのですから、早急に改善すべきところ、遅々として進んでいないことが、12月定例会の子ども文教常任委員会の私の質疑で明らかとなりました。
こうした劣悪な環境は、子どもにとって窮屈であるのは当然ですが、運営スタッフにとっては、狭いところで安全に過ごすための気遣いなど、負担は大きいと思われます。そうした労働条件の違いは賃金等に反映されないわけですから、現場スタッフの不満が高まっているのは容易に理解できます。
経過措置を隠れ蓑にせず、常に最善を目指して取り組むよう市当局に求めています。
http://shigikai.city.fujisawa.kanagawa.jp/g07_Video_View.asp?SrchID=11928&fbclid=IwAR20qEgRs1DMx72VSaObumpJBhPQoTH3jzEk2_wKSijmLx0lhKpcE9ZgKII
しかし、藤沢市の放課後児童クラブは、平均1.37㎡。全62クラブ中、44クラブが基準以下。1.1㎡以下が17クラブもあります。この17クラブの児童1人当たりの面積は、基準の3分の2程度しかなく、基準よりひしめき合っているということです。
平成32年3月31日までは経過措置となってはいますが、元来、藤沢市の放課後児童クラブはきゅうきゅうとした環境であるのですから、早急に改善すべきところ、遅々として進んでいないことが、12月定例会の子ども文教常任委員会の私の質疑で明らかとなりました。
こうした劣悪な環境は、子どもにとって窮屈であるのは当然ですが、運営スタッフにとっては、狭いところで安全に過ごすための気遣いなど、負担は大きいと思われます。そうした労働条件の違いは賃金等に反映されないわけですから、現場スタッフの不満が高まっているのは容易に理解できます。
経過措置を隠れ蓑にせず、常に最善を目指して取り組むよう市当局に求めています。
http://shigikai.city.fujisawa.kanagawa.jp/g07_Video_View.asp?SrchID=11928&fbclid=IwAR20qEgRs1DMx72VSaObumpJBhPQoTH3jzEk2_wKSijmLx0lhKpcE9ZgKII
2019年1月17日木曜日
市民派クラブ 市議レポート 新春号です
藤沢市議会議員<酒井のぶたか>です。
市議レポートの新春号ができました。


PDF版は下でご覧いただけます。
https://drive.google.com/open?id=1GCvbyLmP-u4JzVoC5tHCXwmEwLDCmuzV
市議レポートの新春号ができました。


PDF版は下でご覧いただけます。
https://drive.google.com/open?id=1GCvbyLmP-u4JzVoC5tHCXwmEwLDCmuzV
子どもの未来を応援する、とは?
新春号で、藤沢市議会で俎上に上っている
「子どもの未来応援条例」議案について取り上げましたが、
この議論は非常にややこしく、
子どもを応援することも、子どもの貧困対策も、
必要だと思っていても賛成できない問題を孕んでいるところが悩ましいところです。
子どもの未来を応援する、と言うととても聞こえがいいですが、
しかし、何をどのように応援するのか?
全ての子どもを応援しようというのであれば、
子育て支援、教育は公共の役割として、
すべて公費で負担するというのであれば異論ありませんが、
そうした観点は同条例案には皆無です。
貧困に特化し、困難を抱える子どもを助けよう、ということですが、
貧困状態は世帯収入以外で図りようはなく、
個々の子どもの状況は把握のしようがありません。
世帯収入が少なくても子どもにはしっかり手を掛けている
という家庭が多いことでしょう。
一方で、収入があっても子育てが疎かになっていたり、
子どもの主体性を無視して親のエゴを押し付けられている場合、
子どもの権利は侵害され、
子どもが自身のために使える、使ってもらえるお金が乏しく、
そういう意味で貧困状態にあっても、
世帯収入があるために支援の対象とみなされません。
子どもの貧困問題以前に、
育児放棄や「子どもの権利」侵害が問題なのではないでしょうか?
「子どもの未来応援条例」議案について取り上げましたが、
この議論は非常にややこしく、
子どもを応援することも、子どもの貧困対策も、
必要だと思っていても賛成できない問題を孕んでいるところが悩ましいところです。
子どもの未来を応援する、と言うととても聞こえがいいですが、
しかし、何をどのように応援するのか?
全ての子どもを応援しようというのであれば、
子育て支援、教育は公共の役割として、
すべて公費で負担するというのであれば異論ありませんが、
そうした観点は同条例案には皆無です。
貧困に特化し、困難を抱える子どもを助けよう、ということですが、
貧困状態は世帯収入以外で図りようはなく、
個々の子どもの状況は把握のしようがありません。
世帯収入が少なくても子どもにはしっかり手を掛けている
という家庭が多いことでしょう。
一方で、収入があっても子育てが疎かになっていたり、
子どもの主体性を無視して親のエゴを押し付けられている場合、
子どもの権利は侵害され、
子どもが自身のために使える、使ってもらえるお金が乏しく、
そういう意味で貧困状態にあっても、
世帯収入があるために支援の対象とみなされません。
子どもの貧困問題以前に、
育児放棄や「子どもの権利」侵害が問題なのではないでしょうか?
2019年1月10日木曜日
世帯所得と子どもの権利
世帯所得が十分にあっても、子どもの権利が保障されているとは限りません。
親の責任が問われますが、親の考えも、状況も、多様です。
子どもにとって親の影響は絶大ですが、子どもは親を選べません。
子どもに対する施策は所得制限を設けるべきではありません。
親の責任が問われますが、親の考えも、状況も、多様です。
子どもにとって親の影響は絶大ですが、子どもは親を選べません。
子どもに対する施策は所得制限を設けるべきではありません。
2019年1月4日金曜日
私の原点
鈴木彩子というミュージシャンをご存知だろうか?
高校二年のある日、深夜たまたまつけたテレビで彼女が歌っていた。
ぱっと見て、この人は本気だ、と思った。魂を感じた。
「罪深き英雄」というアルバムのライブ映像だった。
尾崎豊に似ている。
鬱屈した10代の、自由への闘争が歌われていた。
何も傷つけたくはないけれど、闘わずにはいられない、闘わずして生きてはいけない、どうしても譲ることのできないことがある。そんな自分の状況にシンクロした。
中古屋で「愛があるなら」というCDを見つけた。
7曲目「長い放課後」
ピンと来た。山形県新庄市いじめマット殺人事件(1993年1月)。
私が高校時代、校則問題をはじめ学校教育問題に取り組んだのは、94年11月の大河内清輝君自殺事件が強い問題意識となっている。
たぶん、私の思い過ごしに違いない。けれど、思い過ごしであっても、肝に銘じなくてはならない。
94年の夏。私は剣道の審査である体育館に来ていた。審査に合格し、安心したのもつかの間、登録料が必要なことが判明した。交通費しか持っていなかった私は途方に暮れたが、一緒に審査を受けていた見ず知らずのおじさんが貸してくれた。親に連絡を取り、お金を持ってきてくれることになった。後片付けをし、着替えて、控え室の柔道場の隅のベンチで何かを読んでいた。
少し離れたところに五六人の同世代の少年らが戯れていた。しばらくして柔道技のかけあいを始めた。見ていると、小さめの子が集中的にかけられている。からかうような感じで互いにニコニコ笑って戯れてるようにしか見えない。そのとき、一人が、すっ、と小柄な少年の財布をポケットから抜いた。戯れてるふうな様子が一瞬にして曇った。小柄な少年は悲しげな表情になり、返してくれと縋って行ったが、次々と仲間の間で回してからかい、その間もどつかれている感じだった。一瞬、うずくまり、泣いているような感じになった。そこへ、一人が財布から札を抜き「ほらよ」と投げて返した。すぐに少年は、しょうがないな、という表情を見せ、またふざけあうような感じになった。この出来事は一瞬のことで、傍から見ていると、全体としては仲間同士で戯れているように見えるのだった。
結局私は傍観していただけで、なんら手を差し伸べなかった。
それから数ヵ月後、大河内清輝君の事件が社会問題となった。愛知県西尾市の事件で、身近であったし、同世代の自殺、それもいじめが原因であり、現に身近にもいじめはあって、我がことのようにショックを受けた。
その後、注意して新聞やルポなどを見ていたら、清輝君が剣道部だったとあった。
はっ、とした。もしかして、あの時の小柄な少年は彼だったのかもしれない。
少年も審査を受けていた。少年も合格して嬉しそうに手続きをしていた。そして、仲間たちと思われる連中と戯れていた。
と、思っていたけど、あれはやはりいじめだったに違いない。
あの少年は清輝君ではないかもしれない。けれど、清輝君でなかったにしても、あれは確かにいじめだった。
いじめとはああいうものだ。傍から見ればふざけあってるように見えるかもしれない。そりゃ、いじめられてる方もいじめられているということが屈辱であるから、周囲の人間に悟られたくはない。あくまで、どちらも対等な仲間を装う。いじめている側も、いじめている自覚がなくて、圧倒的な理不尽な権力関係があるのに、あたかも当然の仲間関係のように思っていたりして、時には個人的に友人として助け合ったりもするから、集団の顔と、個人の顔で関係がまったく別であったりもする。
あの時、私が何かしらの行動を起こしていたなら、彼らの将来に何らかの影響を与え得たかもしれない。あれが、清輝君だったとしたら、自殺しなくてすんだかもしれない。
目の前にいながら、何も行動に移すことができなかったことが悔やまれてならない。状況が掴めなかったこともあるが、やはり、因縁つけられて彼らの暴力が我が身に降り掛かるのを恐れたのに違いない。情けない。
これ以来、少なくとも自分の手の届く範囲での理不尽な暴力には容赦なく介入してきた。現に起こっている暴力は許さないし、いじめを潜在させる構造や、個人の内に暴力を生む社会的な構造があれば、徹底的に批判し、改善するべく動いた。
見て見ぬ振りするのは、そこに自分が生きていないに等しく、自分が自分であるために、自分の正義を貫かざるをえなかった。
この思いは、今でも、私の基盤にある。
そんな折、「長い放課後」に出会い、すぐに山形県新庄市いじめマット殺人事件の情況を歌っているように思った。いじめの悲惨さ、苦しさを、痛いほどひしひしと感じる。
いじめは許さん。
https://sites.google.com/site/sakainobutaka2015/home/yuan-dian
(2006年にブログに書いた記事です。)
高校二年のある日、深夜たまたまつけたテレビで彼女が歌っていた。
ぱっと見て、この人は本気だ、と思った。魂を感じた。
「罪深き英雄」というアルバムのライブ映像だった。
尾崎豊に似ている。
鬱屈した10代の、自由への闘争が歌われていた。
何も傷つけたくはないけれど、闘わずにはいられない、闘わずして生きてはいけない、どうしても譲ることのできないことがある。そんな自分の状況にシンクロした。
中古屋で「愛があるなら」というCDを見つけた。
7曲目「長い放課後」
ピンと来た。山形県新庄市いじめマット殺人事件(1993年1月)。
私が高校時代、校則問題をはじめ学校教育問題に取り組んだのは、94年11月の大河内清輝君自殺事件が強い問題意識となっている。
たぶん、私の思い過ごしに違いない。けれど、思い過ごしであっても、肝に銘じなくてはならない。
94年の夏。私は剣道の審査である体育館に来ていた。審査に合格し、安心したのもつかの間、登録料が必要なことが判明した。交通費しか持っていなかった私は途方に暮れたが、一緒に審査を受けていた見ず知らずのおじさんが貸してくれた。親に連絡を取り、お金を持ってきてくれることになった。後片付けをし、着替えて、控え室の柔道場の隅のベンチで何かを読んでいた。
少し離れたところに五六人の同世代の少年らが戯れていた。しばらくして柔道技のかけあいを始めた。見ていると、小さめの子が集中的にかけられている。からかうような感じで互いにニコニコ笑って戯れてるようにしか見えない。そのとき、一人が、すっ、と小柄な少年の財布をポケットから抜いた。戯れてるふうな様子が一瞬にして曇った。小柄な少年は悲しげな表情になり、返してくれと縋って行ったが、次々と仲間の間で回してからかい、その間もどつかれている感じだった。一瞬、うずくまり、泣いているような感じになった。そこへ、一人が財布から札を抜き「ほらよ」と投げて返した。すぐに少年は、しょうがないな、という表情を見せ、またふざけあうような感じになった。この出来事は一瞬のことで、傍から見ていると、全体としては仲間同士で戯れているように見えるのだった。
結局私は傍観していただけで、なんら手を差し伸べなかった。
それから数ヵ月後、大河内清輝君の事件が社会問題となった。愛知県西尾市の事件で、身近であったし、同世代の自殺、それもいじめが原因であり、現に身近にもいじめはあって、我がことのようにショックを受けた。
その後、注意して新聞やルポなどを見ていたら、清輝君が剣道部だったとあった。
はっ、とした。もしかして、あの時の小柄な少年は彼だったのかもしれない。
少年も審査を受けていた。少年も合格して嬉しそうに手続きをしていた。そして、仲間たちと思われる連中と戯れていた。
と、思っていたけど、あれはやはりいじめだったに違いない。
あの少年は清輝君ではないかもしれない。けれど、清輝君でなかったにしても、あれは確かにいじめだった。
いじめとはああいうものだ。傍から見ればふざけあってるように見えるかもしれない。そりゃ、いじめられてる方もいじめられているということが屈辱であるから、周囲の人間に悟られたくはない。あくまで、どちらも対等な仲間を装う。いじめている側も、いじめている自覚がなくて、圧倒的な理不尽な権力関係があるのに、あたかも当然の仲間関係のように思っていたりして、時には個人的に友人として助け合ったりもするから、集団の顔と、個人の顔で関係がまったく別であったりもする。
あの時、私が何かしらの行動を起こしていたなら、彼らの将来に何らかの影響を与え得たかもしれない。あれが、清輝君だったとしたら、自殺しなくてすんだかもしれない。
目の前にいながら、何も行動に移すことができなかったことが悔やまれてならない。状況が掴めなかったこともあるが、やはり、因縁つけられて彼らの暴力が我が身に降り掛かるのを恐れたのに違いない。情けない。
これ以来、少なくとも自分の手の届く範囲での理不尽な暴力には容赦なく介入してきた。現に起こっている暴力は許さないし、いじめを潜在させる構造や、個人の内に暴力を生む社会的な構造があれば、徹底的に批判し、改善するべく動いた。
見て見ぬ振りするのは、そこに自分が生きていないに等しく、自分が自分であるために、自分の正義を貫かざるをえなかった。
この思いは、今でも、私の基盤にある。
そんな折、「長い放課後」に出会い、すぐに山形県新庄市いじめマット殺人事件の情況を歌っているように思った。いじめの悲惨さ、苦しさを、痛いほどひしひしと感じる。
いじめは許さん。
https://sites.google.com/site/sakainobutaka2015/home/yuan-dian
(2006年にブログに書いた記事です。)
2019年1月1日火曜日
新年明けましておめでとうございます
新年明けましておめでとうございます。
藤沢市議会議員 <酒井のぶたか>です。
本年も、市民感覚を大切に、見て見ぬふりせず、
藤沢市政が市民への説明責任を果たすことのできる真っ当な市政となるべく、
市議としてやれる限り取り組んでまいります。
ご指導ご鞭撻を賜りますよう お願い申し上げます。
藤沢市議会議員 <酒井のぶたか>です。
本年も、市民感覚を大切に、見て見ぬふりせず、
藤沢市政が市民への説明責任を果たすことのできる真っ当な市政となるべく、
市議としてやれる限り取り組んでまいります。
ご指導ご鞭撻を賜りますよう お願い申し上げます。
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