2015年2月25日水曜日
2月17日 0:18 ・ Twitter ・
藤沢市は昨年末『国会における憲法論議の推進と国民的議論の喚起を求める意見書』を24対10の圧倒多数で可決している。慎重な議論を求めるならまだしも、政府の軍国化路線に与するかの重要案件を、ほとんどの市民が関知しないうちに可決してしまうなど、民意無視も甚だしい。
2月8日 1:38 ・ Twitter ・
長後商店街でもいたるところで横断歩道が消えかかっている。クリニックモールの前ですらそうで、近隣住民から、子どもやお年寄りが危なくてしょうがない、との声があった。まちづくりにおいて、弱者の視点が欠落しているのではないか、と思えてならない http://t.co/E42RtMBFtI
1月27日 8:20 ・ Twitter ・
昨日、訪問先のマンションで、ゴミ捨て場に置かれた高級カバンを発見。中には名刺や手帳、給与明細まで。名刺の番号に掛けたところ、ドアを閉め忘れた隙に車上荒らしにあったらしい。べっとり指紋を付けてしまったので、捜査協力のため指紋を提供するはめになってしまいました。
1月19日 ・ Twitter ・
弱いからと、保護して権利を制限するのは前近代的な管理主義だ。弱さを補って(サポートして、さらには、個性と捉えて)権利を行使できるようにする方が、本人の主体性は尊重される。
1月16日 ・ Twitter ・
投票率が低いのは選管の怠慢でもある。障がいがある人や要介護5の人には郵送投票の制度があることを知っている人は少ないし、投票所への送迎をしている自治体も少ない。昨年末の選挙の後、選挙に行きたくても行けなかった、行けない人がいた、という声が方々で聞かれた。
1月12日 ・ Twitter ・
公園前の横断歩道。廃止されたのか、薄れているだけか、子どもの安全のためにもどうにかしてほしい、との話があった。役所に聞くと、警察の管轄だと言う。交通課が対応を約束したが、半年ほどかかるらしい。その間に事故があったら誰が責任を取るのか? http://t.co/liRcccwwia
1月7日 ・ Twitter ・
金では買えない価値がある。心遣いは金が絡むと形骸化することがある。かといって、心なくてはできない仕事をボランティアに頼るのは、その善意につけ込んだ搾取に他ならない。心遣いが必要だったり、誰もが嫌がる仕事の待遇が低いことも、この社会が強者(利己)の論理であることを物語っている。
1月3日 ・ Twitter ・
明けましておめでとうございます。今年も、心ある方々との出会いを糧に、誰もがイキイキあれる持続可能な社会を目指して邁進する所存です。多くの方々と心ある関係を拡げていければ幸いです。何卒よろしくお願いいたします。
さかい信孝の原点
ぼくが高校時代、校則問題をはじめ学校教育問題に取り組んだのは、94年11月の大河内清輝君自殺事件が強い問題意識となっている。
たぶん、ぼくの思い過ごしに違いない。けれど、思い過ごしであっても、肝に銘じなくてはならない。
94年の夏。ぼくは剣道の審査である体育館に来ていた。審査に合格し、安心したのもつかの間、なんと登録料が必要なことが判明した。交通費しか持っていなかったぼくは途方に暮れたが、一緒に審査を受けていた見ず知らずのおじさんが貸してくれた。親に連絡し、お金を持ってきてくれることになった。後片付けをし、着替えて、控え室の柔道場の隅のベンチで何か読んでいた。
少し離れたところに五六人の同世代の少年らが戯れていた。しばらくしたら柔道技のかけあいを始めた。見ていると、小さめの子が集中的にかけられている。からかうような感じで互いにニコニコ笑って戯れてるようにしか見えない。そのとき、一人が、すっ、と小柄な少年の財布をポケットから抜いた。戯れてるふうな様子が一瞬にして曇った。小柄な少年は悲しげな表情になり、返してくれと縋って行ったが、次々と仲間の間で回してからかい、その間もどつかれている感じだった。一瞬うずくまり泣いているような感じだった。そこへ財布から札を抜き「ほらよ」と投げて返した。すぐに少年は、しょうがないな、という感じで、またふざけあうような感じになった。その出来事は一瞬のことで、傍から見ていると、全体としては仲間同士で戯れているように見えるのだった。
結局ぼくは傍観していただけで、なんら手を差し伸べなかった。
それから数ヵ月後、大河内清輝君の事件が社会問題となった。愛知県西尾市の事件で、身近であったし、同世代の自殺、それもいじめが原因であり、現に身近にもいじめはあって、我がことのようにショックを受けた。
その後、注意して新聞やルポなどを見ていたら、清輝君が剣道部だったとあった。
はっ、とした。もしかして、あの時の小柄な少年は彼だったのかもしれない。
少年も審査を受けていた。少年も合格して嬉しそうに手続きをしていた。そして、仲間たちと思われる連中と戯れていた。
と、思っていたけど、あれはやはりいじめだったに違いない。
あの少年は清輝君ではないかもしれない。けれど、清輝君でなかったにしても、あれは確かにいじめだった。
いじめとはああいうものだ。傍から見ればふざけあってるように見えるかもしれない。そりゃ、いじめられてる方もいじめられているということが屈辱であるから、周囲の人間に悟られたくない。あくまで、どちらも対等な仲間を装う。いじめている側も、いじめている自覚がなくて、圧倒的な理不尽な権力関係があるのに、あたかも当然の仲間関係のように思っていたりして、時には個人的に友人として助け合ったりもするから、集団の顔と、個人の顔で関係がまったく別であったりする。
あの時、ぼくが何かしらの行動を起こしていたなら、彼らの将来に何らかの影響を与え得たかもしれない。あれが、清輝君だったとしたら、自殺しなくてすんだかもしれない。
目の前にいながら、何も行動に移すことができなかったことが悔やまれてならない。状況が掴めなかったこともあるが、やはり、因縁つけられて彼らの暴力が我が身に降り掛かるのを恐れたのに違いない。情けない。
これ以来、少なくとも自分の手の届く範囲での理不尽な暴力には容赦なく介入した。現実に起こっている暴力は許さないし、いじめを潜在させる構造や、個人の内に暴力を生む社会的な構造があれば、徹底的に批判し、改善するべく動いた。
見て見ぬ振りするのは、そこに自分が生きていないに等しく、自分が自分であるために、自分の正義を貫かざるをえなかった。
この思いは、今でも、私の基盤にある。
そんな折、鈴木彩子の「長い放課後」に出会い、すぐに山形県新庄市いじめマット殺人事件の情況を歌っているように思った。いじめの悲惨さ、苦しさを、痛いほどひしひしと感じる。
いじめは許さん。
(2006年8月のブログより )
たぶん、ぼくの思い過ごしに違いない。けれど、思い過ごしであっても、肝に銘じなくてはならない。
94年の夏。ぼくは剣道の審査である体育館に来ていた。審査に合格し、安心したのもつかの間、なんと登録料が必要なことが判明した。交通費しか持っていなかったぼくは途方に暮れたが、一緒に審査を受けていた見ず知らずのおじさんが貸してくれた。親に連絡し、お金を持ってきてくれることになった。後片付けをし、着替えて、控え室の柔道場の隅のベンチで何か読んでいた。
少し離れたところに五六人の同世代の少年らが戯れていた。しばらくしたら柔道技のかけあいを始めた。見ていると、小さめの子が集中的にかけられている。からかうような感じで互いにニコニコ笑って戯れてるようにしか見えない。そのとき、一人が、すっ、と小柄な少年の財布をポケットから抜いた。戯れてるふうな様子が一瞬にして曇った。小柄な少年は悲しげな表情になり、返してくれと縋って行ったが、次々と仲間の間で回してからかい、その間もどつかれている感じだった。一瞬うずくまり泣いているような感じだった。そこへ財布から札を抜き「ほらよ」と投げて返した。すぐに少年は、しょうがないな、という感じで、またふざけあうような感じになった。その出来事は一瞬のことで、傍から見ていると、全体としては仲間同士で戯れているように見えるのだった。
結局ぼくは傍観していただけで、なんら手を差し伸べなかった。
それから数ヵ月後、大河内清輝君の事件が社会問題となった。愛知県西尾市の事件で、身近であったし、同世代の自殺、それもいじめが原因であり、現に身近にもいじめはあって、我がことのようにショックを受けた。
その後、注意して新聞やルポなどを見ていたら、清輝君が剣道部だったとあった。
はっ、とした。もしかして、あの時の小柄な少年は彼だったのかもしれない。
少年も審査を受けていた。少年も合格して嬉しそうに手続きをしていた。そして、仲間たちと思われる連中と戯れていた。
と、思っていたけど、あれはやはりいじめだったに違いない。
あの少年は清輝君ではないかもしれない。けれど、清輝君でなかったにしても、あれは確かにいじめだった。
いじめとはああいうものだ。傍から見ればふざけあってるように見えるかもしれない。そりゃ、いじめられてる方もいじめられているということが屈辱であるから、周囲の人間に悟られたくない。あくまで、どちらも対等な仲間を装う。いじめている側も、いじめている自覚がなくて、圧倒的な理不尽な権力関係があるのに、あたかも当然の仲間関係のように思っていたりして、時には個人的に友人として助け合ったりもするから、集団の顔と、個人の顔で関係がまったく別であったりする。
あの時、ぼくが何かしらの行動を起こしていたなら、彼らの将来に何らかの影響を与え得たかもしれない。あれが、清輝君だったとしたら、自殺しなくてすんだかもしれない。
目の前にいながら、何も行動に移すことができなかったことが悔やまれてならない。状況が掴めなかったこともあるが、やはり、因縁つけられて彼らの暴力が我が身に降り掛かるのを恐れたのに違いない。情けない。
これ以来、少なくとも自分の手の届く範囲での理不尽な暴力には容赦なく介入した。現実に起こっている暴力は許さないし、いじめを潜在させる構造や、個人の内に暴力を生む社会的な構造があれば、徹底的に批判し、改善するべく動いた。
見て見ぬ振りするのは、そこに自分が生きていないに等しく、自分が自分であるために、自分の正義を貫かざるをえなかった。
この思いは、今でも、私の基盤にある。
そんな折、鈴木彩子の「長い放課後」に出会い、すぐに山形県新庄市いじめマット殺人事件の情況を歌っているように思った。いじめの悲惨さ、苦しさを、痛いほどひしひしと感じる。
いじめは許さん。
(2006年8月のブログより )
2014年10月12日 ・ Twitter ・
「憲法9条を保持する日本国民」が、ノーベル賞を受賞できなくとも致し方ない。現憲法制定以来、今日に至るまでの歳月は、9条の理念をなし崩しに形骸化してきた歴史といっても過言でない。まさに絵に描いた餅。確かに歯止めにはなっただろうが、あまりの現実との乖離に、外からみれば滑稽に違いない。
2014年9月3日 ・ Twitter ・
自殺はセンセーショナルだが、自殺に至っていない、進行中の人権侵害こそ取り組むべきだ。自殺の原因ばかり問題にして、足元の人権侵害を見過ごしたり、まして自分自身が加害者になっているような、自分を棚上げにした人権活動には、何の力もありはしない。
2014年7月31日 ・ Twitter ・
体罰が制限されて、生徒の挑発的な行為が増えたと言う。それは生徒の鬱屈が表面化しやすくなったということだ。鬱屈を力で抑え込んだところで、成長が抑圧されこそすれ、何の解決にもならない。むしろ、陰の部分が表面化することは、教育の機会が増えるということで、歓迎するべきことではないか。
2014年6月3日 ・ Twitter ・
不正に目をつぶるのは共犯に等しい。まして、その体制と関係を続けることは、不正に加担していることと同じだ。不正による被害は刻一刻と刻まれる。結局、不正に目をつぶるのは、エゴイズムに他ならない。
2014年5月8日 ・
日本国憲法 第九条
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
当然、この条文は前文とセットである。
日本国憲法 前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
日本国憲法は、日本の拠って立つ行動理念・方針を、これほどまでに明瞭に表明している。これは、日本国民の矜持・アイデンティティーの宣言だ。明確な羅針盤であり、この理念に基づくなら、内政も外交も、進むべき方向は明白なはずだ。
しかし、日本は、立派な理念・方針を掲げておきながら、ことごとくこれらを形骸化してきた。他国への猜疑心に苛まれ、怯えて虚勢を張りながら、武力や経済力にものを言わせ、自国の利益ばかりを優先してきた。むしろ、この憲法を隠れ蓑に、他国を欺いてきたのかもしれない。
『非暴力不服従』の哲学を体現するには、本物の精神力が問われる。
理想を語るのは簡単だ。理想は実行しなければ絵に描いた餅でしかない。偉そうに大層な事を言っておきながら、むしろ反対のことをしている様はなんと滑稽なことか。
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
当然、この条文は前文とセットである。
日本国憲法 前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
日本国憲法は、日本の拠って立つ行動理念・方針を、これほどまでに明瞭に表明している。これは、日本国民の矜持・アイデンティティーの宣言だ。明確な羅針盤であり、この理念に基づくなら、内政も外交も、進むべき方向は明白なはずだ。
しかし、日本は、立派な理念・方針を掲げておきながら、ことごとくこれらを形骸化してきた。他国への猜疑心に苛まれ、怯えて虚勢を張りながら、武力や経済力にものを言わせ、自国の利益ばかりを優先してきた。むしろ、この憲法を隠れ蓑に、他国を欺いてきたのかもしれない。
『非暴力不服従』の哲学を体現するには、本物の精神力が問われる。
理想を語るのは簡単だ。理想は実行しなければ絵に描いた餅でしかない。偉そうに大層な事を言っておきながら、むしろ反対のことをしている様はなんと滑稽なことか。
2014年4月12日 ・ Twitter ・
http://t.co/aHVIb0dKCq「核兵器を使用することの非人道性についての認識を、世代と国境を超えて広げたい」(岸田外相)・・・”核兵器”→”原発”と言い換えて自問しろ!
2014年3月22日 ・ Twitter ・
公共性のあることに公的資金を当てなくてどうする。その上でそうした仕事に従事する自覚を持たせなくてはならない。官職であっても公共の使命を自覚していない奴らが多いのだから話にならない。一方で、待遇が悪くても使命感を持って働いている人もいるのだ。そうした人が報われる世界にしなくては。
2013年1月24日 ・ Twitter ・
教師は、過去も含めて全てを総括しろ!教師の一つ一つの言動は生徒の心に刻まれているんだぞ。時とともに薄れるなんて思うな。過去を振り返り、公にし、本人に謝罪せよ。それができないなら教師を辞めろ。 →「体罰の全国調査、文科省が通知」http://t.co/8MJtRCT4
2013年1月13日 ・ Twitter ・
日本社会には暴力が充満している。暴力を当たり前と思う風潮がある。ムラの論理を優先し、人権を尊重しようという意識が低すぎる。人権侵害を甘受しなければ評価されなかったりもする。しかし、そういう組織に与する者も共犯だ。暴力による損害を自覚せよ! http://www.asahi.com/edu/articles/TKY201301110314.html
2013年1月8日 ・ Twitter ・
試合のミスで平手打ち 母親「頬腫れ唇切れる」 高2男子自殺 ― スポニチ http://t.co/KGoRoNTh
体罰だけが直接の原因でないとしても、自殺者を取り巻いていた自殺者に関与した全てが複合して死に追いやったということだ。社会全体が己の事として反省しなくてはならない。
2013年1月2日 ・ Twitter ・
労働条件が悪い会社が多い。労働者側は働く場がないから悪条件にも妥協するわけだが、経営者が労働者の弱みに乗じて搾取しているということだ。経営者のエゴ以外の何物でもない。現場を搾取している企業にかぎって本社が贅沢だったりする。現場に経営感覚を押し付け、自分達は浪費する醜態経営。
2012年11月5日 ・ Twitter ・
賃金格差は差別問題だ。原発事故の現場処理に従事する労働者がサラリーマンの平均賃金より低賃金であるなんて、本社社員の高給取りの気が知れない。自分さえよければいいというエゴイストが多すぎる。労働価値が正しく評価されなければ労働意欲は失われ組織は疲弊する。
2012年7月7日 ・ Twitter ・
すべてのテクノロジーは人を豊かにしうる反面、不幸にもしうる。テクノロジーには力があり、力にはリスクが伴う。危険性は常に可能性としてはあるのに、実際に我が身に降りかかるまでは、自分はその可能性の外にいると思いがちである。危険は突如として降り掛かってくる。
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